ファミリーコンステレーション

ファミリーコンステレーション

7月19日、大阪で開催されたファミリーコンステレーションに参加しました。この記事は、ファミリーコンステレーションの体験と、その後感じたことをまとめます。

はじめに、主催してくださった田中みずえさんと、一緒に参加してくださったみなさんに感謝とお礼を申し上げます。本当に豊かな時間をありがとうございました。

ファミリーコンステレーションとは

私は家族というつながりは、自分を知るためにとても大切な意味を持っていると考えています。

なぜ今という時代に生まれてきたのか?
なぜこの家族に生まれてきたのか?
なぜこの家族の長子として生まれてきたのか?

この意味の本当のところを人は知ることができないのかもしれません。しかし、自分なりに自分の人生を理解して、そうだったんだ、と思えることで選べる道が、進める道が、あると思ています。

そうだったんだと思うことは、即ち自分の人生が「肚落はらおち」するということだと思っています。これは、誰かから「あなたは〇〇をするために生まれてきたのよ」と言われて気づくものではなく、自分が今までの人生で経験したことを全て身に変えることだと、私は考えています。

子供は思っている以上に大人を見ています。自分が置かれている環境も理解しています。みなさんも、いつまでも子供だと思っていた存在が意外なほど理解していることに驚くことはありませんか? それは私たちも同じです。

きっかけから思い出せる程度に忘れているのか、完全に記憶から抹消しているのか、人によって様々ですが、子供のころの記憶は今の私たちを形作る大切な記憶として体の中にしまい込まれています。

そうした記憶を思い出すこと、そして、自分が知りえない家族の思いに触れることができたのが、このファミリコンスタレーション(以下、略してファミコン)でした。

いろんな形の癒し

心理的な安心感

私にとって、日常のなかにある癒しはたくさんあります。ベランダの植物が成長してくれている姿を見ることや、可愛い保護犬と触れあうこと、主人と二人のいつもの食卓、読みかけの本を読む時間、午前中の気持ちの良い風も癒されます。こうした「リラックスした状態=緊張を解いた状態」は、日常を支える癒しの時間です。

しかし「癒し」というのはそれだけではないと、この一年と少しを経験して感じました。その存在を明確にしたのがファミコンでした。

自らの奥深くから湧き出るもの

ファミコンでは、気づき、理解、受容の過程を経て、愛の存在に気づく瞬間が訪れ、そして最後に共感という形でその姿が現実化する体験をしました。それは「とても深く、終わらない癒し」。一過性のものではなく、消費されるものでもなく、奪うものでも奪われるものでもない。

具体的なお話は次の体験談でお話しします。

私のファミコン体験

自分の家族のことは自分が良く知っている、と思っています。しかし実際はどうでしょう。

ファミコンで中心役になることで、自分の家族を客観的に感じることができます。というのも、実際に家族の役をやっているのは参加者さん、顔も声も違いますからね。でも、始まって数分で、自分の家族に囲まれているかのように私は振舞っていました。

私は「母は/父は/妹は/祖母は、こんな人だ」という強い思い込みを持っていたことに気が付きました。気づいたのも妹からの「お姉ちゃんはそうやっていつもお母さんを決めつける」という言葉を聞いたからです。これがきっと、本当の家族のなかで発せられた言葉だったら、聞き流していたんじゃないかと思います。でもファミコンでは、家の外の私と、家にいる私の両方が共存しているかのような気持ちになるので、妹の声を聞くことができました。

気づき

「この家族の一員」という存在から離れた時に初めて見える風景から、自分自身を含めた家族の姿を俯瞰することができます。
ハッとするような気づきは、自分にとって意識しないところにこそあります。

理解

家族役の人に今の気持ちを聞くことができるので質問します。質問をすることで、自分の心の内を言語化するので、自分の思いにも気づきますし、状況の理解も進みます。

受容

「そんなわけない!」と思うことがあっても、今目の前にある空間と、自分の気持ちを受け入れます。そこで言い争いをしても進展しませんからね(私はしてしまいましたがw 我が家族の日常の風景をそのまんまやりました)。

共感

ファミコンでは別の参加者さんの家族役として参加もしました。自分が中心のときは感情的になっていたので気づけなかったことに、家族役として参加することで気づけました。「この人も私と同じ気持ちを持っているんだ。だから私はあなたの気持ちがとても分かる」と共感することで、より現実の世界での落とし込みができた。

愛の存在に気づく

ファミコン中、冷静に周りを見渡すとみんな心配そうに私を見ていました。あくまでファミコンという場ではあるけれど、この感覚を私は知っていると感じました。思い出すと、それは幼い頃の幸せな風景そのものだったなと、ファミコンを終えて振り返る中で気が付きました。家族のなかに私の居場所がある、そこは愛に包まれている。それに気づくことが「自らの奥深くから湧き出るもの=尽きることのない癒し」でした。

ファミコンを終えて

ファミコンが終わってすぐに私は帰省しました。予定になかったのですが、妹も帰省していて家族がそろいました。偶然ですが奇跡のようなタイミングだったなと思います。ファミコンで感じた家族のことを胸に、目の前にいる家族の姿を見ていると、私はこの営みのなかでたくさん愛されて育ったんだなと実感しました。過去の自分と今の自分が出会ったような感覚です。

改めて、私は家族に対して「この人はこんな人だ」と決めつけてきたことを感じました。母をかわいそうだと思っていたし、だから私が頑張らないといけないと、幼い頃の私は強く決意しました。その決意の記憶こそ忘れてしまっていますが、だから私は母に甘えることができなかったと気が付きました。また、父に対しても同じです。頼りない人だから私がしっかりせねばと思っていました。

しかし改めて両親を見ると、苦しい時代もあったけれど、堅実に仕事を積み上げて、私たちを育て、立派な実業家として地域に貢献している真面目な人たち、自慢の両親でした。

私はずっと、子供を持てなかった自分を、母になれなかった自分を、責めていました。でもこれも、自分を責める必要のないことだと気が付きました。気づいたとき、誰に責められていたわけでもないのに、許された気がしました。きっと、自分で自分を赦せたのだと思います。

さいごに

かなり盛りだくさんに書いてしまいましたが、これが私のファミコンから受け取ったものです。きっとこれから先も、このファミコンで受け取ったものが花開き、私に「自らの奥深くから湧き出るもの=尽きることのない癒し」の気づきを与えてくれると思います。

でもね、こうした気づきや癒しは、ファミコンに参加しなくとも得ることができると思います。自分の思い込みや意地をを捨てて、きちんと目の前の事実を恐れずに見ることができれば、いつでも得られるでしょう。その心の持っていき方を、体感して学んだ場がファミリーコンステレーションでした。

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