贖罪と救済

贖罪と救済

 6月の終わり、大塚国際美術館でたくさんの宗教画に囲まれてきました。どれも本物ではないけれど、キリスト教に触れることが少ない日々の中で、あれほどの数のキリストを見ることなんてこの先もないだろうって思うくらいの数でした。中でもキリストが十字架にかけられている絵は数多くありました。

 実は、美術館の中ではそれほど様々を感じていなかったんですよね、私。回ることに精いっぱいで(笑)でも後からグッと思いが湧きおこることがあって、また同時にヨーロッパ旅行中の田中みずえさんの記事にある数々の祈りを見て、浮上してきた思いを記事にしようと思いました。

 もし同じように、自分の中でも言葉にさえなっていない罪の意識を抱えている人に、届くといいな。

きっと誰しもにある贖罪

 みずえさんのプログラムを受け始めてすぐ、怒涛の言葉ラッシュを受けたことがあるんです。その中で、何度も何度も、それこそ耳にタコができるほど言われたことが「自分は幸せになっちゃいけないと思ってない?」でした。その時の私は「そんなこと考えたこともないですよ」って答えていたんですが、実はすごくすごく、意識にも上らないような深い部分で、そう思っていたようなんです。

「意識にも上らないような深い部分で」って書いたのですが、これは何と表現したらいいのかな。頭では分かっているけど、ハートでは感じ取れていない部分、と表現したら近いかな(※で追記)。

 理解することと、感じるというのは、別のものなんだって体感できるようになったとき、自分が抱いている「罪の意識」にも気が付きました。

※具体的に説明すると、今まで、見て聞いて読んで、これはこういうことで、だからこうだ、と判断することって、頭で考えていることだったんだなって思います。たぶんホロスコープでいえば水星過多(水星が強いホロスコープ、例えば水星が双子座・乙女座)、あるいは月が水星っぽい(月が双子座・乙女座)の人は分かるかなって思うんですが、言葉を聞いて、思考して、理解することが、普通のことなんです。

 だけど、だけども! 感じるだけの部分も私にはある。この「感じるだけの部分」こそが、私と、私の過去を結び付けてくれるものだったんです。無意識に封印してたんだと思います、いろいろ感じると、自分が大変だから、忙しくなるから、喜怒哀楽に振り回されるから。いろんな理由があって、ここにも見つめないといけない自分がいるのだけど、まずはね、思考と感情の違いが分かっただけで、シュルルルって紐が解けて然るべき場所に結びついたような、スッキリとした感覚がありました。

きっと誰しもにある贖罪

 極論を言うと「生きててすみません」というメンタルの人がいるように感じています。なんでも自分が原因だと思っちゃう人、悩んでも答えが出せないのは自分の力不足だと思っちゃう人、頑張りが足りないから報われないんだと思っちゃう人などなど、いろんなパターンがあると思います。

 私もね、主人の病気は私と結婚したからじゃないかとか、思ったんですよ。それぐらい5年前はマイナス思考、とは違うかな、びくびくしてたんだと思います。この世のすべての元凶を連れて歩いているような気持ちというか、メンタル。過去に目立ったことで痛い思いをした経験とか。だから、元凶が暴れださないように、目立たず、隠れていなきゃいけないって風な生活だったなあと思います。

 もちろん、その当時はそんな風にも思ってなかったですよ。普通だと、ごくごく普通の「控えめな一般人」ぐらいの気持ちでした。だけど違うんです、蓋してるだけなんです。

 たぶん誰にでもあると思います。反省している気持ち、やっちゃったなーっていう後悔。あるいは、小さいころからずっと言われ続けていたこと、それが例え優しさであっても、実は傷ついていること。だけど優しさだって分かるから「傷ついた」と感じること自体がいけないことのような思い。

 そうした罪の意識を持っていると、ここぞという時に引いてしまう、怖気づいてしまう、本当に選びたいものを選べなくなってしまう。そして、願い事や本当に欲しいものは? って聞かれた時に、不足を補うようなことしか出てこない。忙しくしていれば不安は遠のきますが、満たされない思いは残されたままだし、忙しさが落ち着くと不安が募る。こんな現象が起こるんじゃないかと思います。

 これね、心が拒否してる、諦めてるんだと思います。そうする方が守れるから、あの頃の傷ついた自分を守りたいから

 でもこれが、いつもの悪いパターンや、心のクセに繋がっているんではないかなと思うようになりました。私もそうだしね、世の悪しきことは自分が存在しているからだ、なんておかしいんだけど、真剣にそう思っていましたもん。

たぶん私たちは「愛」という言葉でしか表現できない

 私たちはたくさんの言葉を知っているし、気持ちを言葉にすることもできます。だけど、優しく包み込んでくれるもの、慈しみに溢れるもの、温かさを感じるものなど、救いとなるものに対しては「愛」という言葉しか持たないんじゃないかと、思うことがあります。

 宗教用語でいえば、キリスト教でいう「アガペー(神の愛。罪人である人間に対し、神が注ぐ自己を犠牲にした愛)」、仏教でいう「慈悲」ということになりますが、宗教云々はあえて区別する必要はないと思います。言葉だって、愛でもアガペーでも慈悲でもいい。

 ただただ、自分に「愛」を注ぐこと、過去の自分や苦い思い出を理解し、寄り添うこと。時には優しさが厳しさに見えることもあるかもしれません。でも、その根っこを理解しようと努め、自分を許すこと。

 そうすることが、いつもの思考パターンや、心のクセのループから、自分を救済することに繋がるんじゃないかと思います。


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スイス・ドルナッハでオイリュトミーを学んでいらっしゃる花岡ご夫妻の「はりねずみの会」で、魂の暦を知りました。

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